
2009年10月11日
~江戸の文化、風習を川越に定着させた新河岸川舟運~
江戸時代の川越は、藩主に徳川幕府の大老や老中職を迎え、十七万石の城下町として栄えていた。
その原動力となったのは、江戸の隅田川と直結した新河岸川舟運(しんがしがわしゅううん)。
川越商人は、周辺地帯から集めた物資を大消費地である江戸へ売り込み財力を高める一方で、東都の文化、風俗をそのまま引き写し、
江戸と表裏一体の生活を営んでいたという。
川越祭が、山車、人形、囃子、衣装など、すべてに正調の江戸流を伝えているのも、こうした理由にほかならない。
江戸の大祭として有名な天下祭(てんかまつり)の影響を深く受け、しかも明治30年代になると、山車の構造や豪華さでは本家を追い越しているのである。
天下祭とは、元和元年(一六一五)から徳川幕府の肝入りで行っていた赤坂日枝の山王祭と、神田明神の神田祭のこと。
その双方が一年おきに祭礼を起こし山車の行列を江戸城内に曳き入れて、天下の将軍様の上覧をかなえていた。
江戸型山車の特徴である上層部分が伸縮できるカラクリ構造も、山車を城中に曳き入れる際、いくつかの城門をくぐりぬけるための工夫から成立したもの。
天下祭や江戸市中に登場した江戸の山車はその後の時代の流れの中で、関東の各地へ売り払われたりして東京から姿を消してしまう。
明治42年(一九〇九)の深川祭を機に江戸・東京の祭礼の主役は山車から町神輿へと姿が変わってしまった。
それだけに川越祭は、江戸の祭礼様式や風流をしのぶ貴重なもの。川越氷川祭の山車行事として国の重要無形民俗文化財に指定されている。
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